花を活ける
気づけば、お正月気分もとうの昔のことのようで、あれよあれよと節分も迎えてしまい、あっという間に今年もすすんでいるなあ、という感覚があります。
前回から日があいて、年明け初めてのブログを書かせていただいております。遅ればせながら、今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
さて、わたくしごとではございますが、ひとつ、今年に入って暮らしの中に加わったことがあります。それは、花をいけることです。生け花というと、さまざまな流派等があるかと思いますが、わたしは習ったこともありません。ただ、よさそうな器を選び、庭をゆっくりと見まわりながらよさそうな花や枝葉を選ぶ、ということをテキトーにのんびりしています。
きっかけはお正月のことで、お正月くらいお花を飾らないとなあ・・と思っていました。お店に行くと、門松をはじめ、南天や松を基本にさまざまなお花で拵えられたものがずらりと並んでいました。どれにしようかと眺めていたのですが、なんとなく買うのもなあ・・・という気持ちになってきて、「そういえば南天もあったな・・・」と庭の光景がぼんやりと頭に浮かびました。ひとまず、手ぶらで帰ることにして、帰ってから庭に出てみました。南天を見つけ、そのほか、よさそうな枝葉を選び、手の届くところにあった器にいけてみました。すると、なんと言ったらいいのか、どことなく満たされるような感覚がありました。そこから、家にあるよさそうな器をあれこれとひっぱりだしてきたりしながら、庭を散策し(といっても、こじんまりとした庭です)、花をいけることが日課になりました。
今のわが家では、ツバキやスイセンなどが咲いています。よくよく庭を歩いていてみると、こんなところにこんなものが、といった発見もよい時間になっています。また、梅雨の頃になったらアジサイが咲くなあ~など、これからのことも楽しみに思いながら、以前より季節を感じている気がしています。
日本では、花を「活ける」とあります。自然の花が生きていることは間違いないのですが、人が摘んで、器に入れ、部屋に飾った時に、はじめて「花に成る」という考えが日本人にはあるようです。だから、華道のことを「お花」といい、花をさすことを「生け花」と呼び、このような言葉は日本特有のもののようです。私の好きな白洲正子さんという方が本の中で言っておられました。「花は器が教えてくれる」とよくいわれるそうですが、花や器にはそれぞれがもつ個性があり、生け花はこちらの都合に合わせて花をアレンジすることとは違い、いけ手は黙って器や花に身を委ねるしかない。しかし、そうすることによって人は自分自身をかえって自由に解き放つことができ、「制約が多いところにこそ真の自由がある」ということが道理にあるようです。
正直、忙しい日々を送っていると、お花なんて言っている時間も勿体ないという気持ちになることもあったのですが、そんな時だからこそ、大事な時間になっているように感じてきています。家にある限られた素材の中での調和作業、また、「花は器が教えてくれる」という自然に身を任せることは簡単なことではないのですが、その中だからこそ得られる豊かさや安心があるのだろうと感じています。目まぐるしく過ぎる単調な日々に彩りを与えてくれるだけではなく、花をいける中で、ちょっとしたこころの余裕や落ち着きを得られているところもあるのだろう感じています。
ただ、ひとつ、残念なことが。うちには猫様がいるのですが、自由に好きな場所に飾ることができないということ。物珍しいものには猫様の綿密な調査が入ります。つまりは、水をかきだし、花を引っこ抜き、最終的には器ごとひっくり返すという未来が待っています。でも、まあ、しょうがない。猫様との生活にも調和できるかたちで、これからも楽しみたいと思います。
Y.Y.